緑中央マイナーの観戦記他

2003年10月25日
戦ってこそ

 大会が始まると同じ条件で戦ういろいろなチームを見る。当たり前のことであるが1試合でほぼ半分の子供と親たちが負けて落胆を味わう。練習の成果を出せずにエラーをしたり、緊張のあまりバットに当たらなかったりする。チームの人数が多い場合は試合に出ることのできない選手もいる。試合では成果を試すチャンスすらない選手である。マイナーになるとそこそこ口も達者で「やる気はあるんだけれど試合に出れない」という選手もいる。やる気があるのは本来当たり前。なければ参加しないほうがいいはずなのだが親だけのやる気も結構あったりするので、子供はやる気が何かはっきり自分の中で整わないうちに参加しているかもしれない。

 これはジュニアとマイナーの大きな違いを感じている部分でもある。ジュニア時代は遊び場の延長でいいと思ったし、試合はそんな形式を体験することで十分だと思った。だから子供も現実は親に守られそっと触れる程度の参加であったと思う。その場合親が子供はこんなにやる気があるのに、と自分の子供の側に立ってしまうのはしかたない。親がやる気があるのだから(私もこのタイプ)。

 マイナーは親から離脱が始まる時期と重なるのではないかと、リトルやシニアの親たちと話して気付きはじめている。「マイナーは子供でなく少年の野球である」と考えると選手が「やる気」を口にするのは違和感がある。試合に出れないことにやる気は関係ない。やる気がない選手を出しているとすれば指導者の問題であって、どこのチームでもそんなことは稀だと思う。やる気はみんなあると考えるべき。そのやる気のある連中の中で自分が出るにはどうするか。戦って今いるレギュラーからポジションを奪うしかないのだ。それがスポーツをする一番大きな意義だと思う。戦いはまずチーム内のレギュラー争いのために自分に使い、そして試合では相手チームのために仲間と使う。闘争心を人を傷つけることに使わず自分が生きていく強さに変えるためと気付けば、その戦いが自分を引き上げる楽しさにつながる。自分との戦いに勝った者を仲間として認めるのは筋が通っている。仲間とはいざという時にチームを守ってくれる強さを持った仲間である。強さは自分との戦いで磨かれる。戦える仲間を持つこと、少年には魅力的なものになっていく。この時期が親からの離脱の時期で、この時期があれば少年が大人への入口にしっかり手をかけることができる。

 懸命にやる気を出している、という理由で試合に出れると、親のやる気には十分報いられることであるが、子供にとってそれがどれほど価値があるのか。親子の思い出づくりのための時には大切かもしれないが、一人の少年が大人になるためには現実から評価されることが最も大切ではないかと感じる。現実がゆがめられないようにするだけでも指導者は大変なプレッシャーでやっている。

 どのチームだって勝ちたい。勝ちたいという気持ちは紛れもない現実であり、勝てない、出れないのも選手につきつけられる現実であり原点である。破れたあと、出れなかったあとに子供と一緒に考える。それが学校や家庭では得られなかった貴重な子育ての機会だと感じられる。与えられない世界、戦ってこそ価値のあるもの。早くからそれに気付く舞台は整っている。親にも子にも。

(飯塚記)