2003年12月12日 神様の打席 怒鳴り声と平手打ちまではさすがにいかなかったが寸前まで怒りは浸透していた。忘 れられない光景がある。ジュニアの頃であったがあるリトルリーグのチームのコーチ が自分の息子のふがいないプレーにである。 愚息のことであるが一年生の時に生死を彷徨ったことがあった。朝元気にあいさつを 交わした彼をベットで点滴をさされて意識がなくなった状態で夕方再会した。頭蓋骨 骨折、脳挫傷だった。その夜が山場であることを医師から伝えられる。祈るしかなかっ た。後遺症の可能性も言われた。今でもはっきり覚えている感覚は、状態などどうで もいいから「おはよう」ともう一度だけ会話をかわしたい、それだけだった。 何を隠そうこの事故があるまでは私もあのコーチと同じで若干一年生の息子に「なぜ できない」と怒ってばかりいた。ベーランで遅い、ボール球に手を出す、取れる球を そらす、試合の大事なところでミスをする、今でも怒りたい気持ちを反対側に思いっ きり引っ張るのがこの極端な体験だ。聞けば私だけでなく我がチームの多くの親たち も子供が様々な病気、怪我で運動どころか生死を彷徨った経験を持っていた。だから かどうかわからないが、練習は別だが試合で怒り狂った親にはあまり会わない(家で は知らないが)。 いつか子供たちも親になる。その時にきっと思い出す。瞬間の積み重ねにいろいろな 表情した自分の親の顔を。その時にはもう変えることはできない思い出は今作られて いる。だから今この瞬間に、親の笑顔も怒りも子供たちの記憶にインプットされてい ることを子供の成長の早さで忘れないようにしたい。 試合だって練習だって元気で打席に立っている子供を楽しむ。結果なんて神のみぞ知 る。あのコーチも気が付いてくれるといいと思う。子供が大病や怪我をしなくても気 付いてくれたらいいと思う。子供は神から預けられているだけだと。子供がこの世に 存在できない可能性を少しでも想像できれば、ここまで育ってくれたことに感謝せず にはいられなくなる。この楽しみは子供は親になるまでわからない。だからこの打席 は子供の打席でなく、それを見ることのできる幸せな親たちに神様から贈られた打席 だ。きっと親たちが、子供との時間を共有するために、うつむかないでがんばってい るからご褒美をくれたと思う。サンタは大人にもやってくる。メリークリスマス。 (飯塚記) |